2011年8月29日月曜日

BEEGEES 1st

60年代の話が出たところで、BEEGEESに戻って、一番好きな初期のBEEGEESの話をしよう。
前回書いたように60年代後半はどのアーティストもサイケの洗礼を受けていたわけだが、このBEEGEES1st もそのひとつと見ていいのではないだろうか?むしろ Beatles が始めた管弦楽器の導入などをさらに強調し発展させたものという気がする。特に Bill Shepherd などによる Beatles 以上に過剰なストリングスアレンジが独特のイメージを与えている。
特に"Red Chair Fade Away","Cucumber Castle" などの曲ではその優雅な雰囲気がなんともいえない。また、Beatles (特にエリナリグビー)の影響が強く感じられるデビュー曲 "New York Mining Disaster 1941"(「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)もその独特な詞の世界は彼らならではである。(このタイトル凄いと思う)彼らのユーモア感覚が感じられる "Craise Finton Kirk Royal Academy Of Arts" も面白い。
一方で Beatles とは違う魅力が感じられるのは、第2弾シングル "To Love Somebody" 。この曲はジャニス・ジョプリンをはじめ世界中のアーティストにカバーされている R&B の名曲である。実はこの曲をきっかけに R&B というジャンルに興味を持ったぐらいなのだが、BEEGEESの主流を占める美しさを強調した曲とは別の味わいがあり、この辺りがBEEGEESは只者じゃないと思わせる部分である。
全体的には Beatles の影響が強いアルバムだが、個人的には "Revolver" より好きだ。Beatles の中の僕の好きな部分だけを抽出したようなアルバムだからだ。

2011年8月28日日曜日

"Paper Sun" Traffic

好きな音楽はと聞かれると、60年代サイケと答えることが多い。Beatlesのサージェント・ペパーあたりから始まった美しくもあり難解でもあるきらびやかな世界が単純に好きだ。特にチェロ、フルート、オーボエ、ハープシコードといったクラシックの楽器やシタールなどを過剰に取り入れた曲が好きだ。この時期のポップミュージックは多かれ少なかれサイケの洗礼を受けているわけだが、Traffic の"Mr.Fantasy"もそのひとつである。
で、今日はなんとなくTraffic を聴き続けてしまった。アルバム曲ではなく、シングルの2曲"Hole In My Shoe" と "Paper Sun" を・・・
"Hole In My Shoe" は以前から良く知っていたが、 "Paper Sun" の良さに気づいたのはつい最近のこと。完全にあっちの世界に行ってしまってる"Hole In My Shoe" と違って、"Paper Sun" は通常のバンドサウンドとサイケが適度に混ざったサウンドで、詞も日常を舞台にしながら非日常を描くというなかなか深い曲だ。

2011年8月27日土曜日

"Blackberry Way" MOVE

この辺でBEEGGEES以外の話を。今回はBEEGEESと並んで好きなMOVEというバンドについて。というのもここ数日MOVEばかり聴いているので・・・
MOVEは60年代後半のイギリスを代表する人気グループのひとつなのだが、日本では驚くほど知られていない。
僕がMOVEを知ったきっかけは80年代頃だと思うがNHKFMで放送された「ブリティッシュロックの歴史」という番組。それはある1年例えば1969年にイギリスでヒットした曲をひたすら流すというだけの番組だった。その中で一番気に入った曲が”BlackberryWay”だった。曲名等を流さない番組だったので、イギリスのヒットチャート本で調べてやっとMOVEというバンドの曲だとわかったのだが、「MOVEってどこかで聞いたことあるぞ」と思って考えてみたら、驚いたことに当時僕が一番よく聴いていたELOの前身バンドだったのだ。
このMOVEにはジェフ・リンも末期に在籍しているのだが、何と言ってもMOVEといえば大天才ロイ・ウッドのバンドである。僕はレノン&マッカートニー以外で天才的なメロディーメーカーといえばギブ兄弟、ロイ・ウッド、ジェフ・リンだと思っているのだが、そのうち二人が一時的にせよ在籍していた凄いバンドがMOVEである。とは言ってもこの二人、レノン&マッカートニーほどの相乗効果はなかったようで、ジェフ・リン在籍時のMOVEはあまりぱっとしない。
で、僕が一番好きな曲はジェフ・リン在籍以前の1968年の全英NO1ヒット”BlackberryWay”である。MOVEの中では最も親しみやすいメロディーの曲で、そのため一部のメンバーには不評だったらしいが、僕はこのぐらいの適度にわかりやすいがちょっぴりサイケな曲が好きである。
もう一曲、次のシングル"Curly"も大好きな曲だ。こちらはリコーダーの音と「ビダンビダン(be done)」という松田聖子の某曲のような歌詞がすごく可愛らしい?名曲である。

2011年8月10日水曜日

表現の自由ということ

またまた湯川さんネタで申し訳ないが、どうも湯川さんのビージーズに対する評価は、かなり適切なようなので、どうしてもそうなってしまう。
80年代のこと、全米トップ40の特集番組で、アメリカのDJが選ぶ「影響を受けたアーティストTOP40」というのをやったことがある。僕もビージーズが何位にはいっているか興味があったので、夜遅くまで聴いていたのだが、第2位まで発表されてもビージーズが出てこないので、「もしかして1位?」と大いに期待したのだが、驚いたことに1位はビージーズではなかった。つまりTOP40に選ばれていなかったわけである。これにははっきり言って仰天したわけだが、そのとき湯川さんが、
「◯◯のような箸にも棒にもかからないのが上位に選ばれていて、ビージーズがはいっていないのはおかしいですねえ」
と発言した。やはり音楽のわかる人の感覚はそうなのである。
このときはその背景を全く知らなかったので、僕も湯川さんもこの結果に仰天したわけだが、後に知った情報によると、この時期アメリカのDJの間ではビージーズは意味不明に嫌われていて、ビージーズが新曲を出してもビージーズというだけで彼らはいっさい流さなかったそうである。その証拠にあの名曲”You Win Again"がアメリカでは全く売れていない。
これ文明国の話でしょうか?アメリカは自由の国と言われているけど、本当は表現の自由なんて全然ない閉鎖的な国だということでしょうか?それとも単に当時のアメリカのDJが低レベルだっただけ?

「リビングアイズ」について思うこと

もうひとつの問題作は「リビングアイズ」である。といっても内容についてではなく、その発表時期についてである。このアルバムが発表されたのは1981年、前作「失われた愛の世界」から2年9ヶ月を経ていた。このことがビージーズの大失速につながったと思っている。
「サタデーナイトフィーバー」があまりに売れてしまったため、世間ではビージーズ=ディスコミュージックという図式が出来上がってしまった。(世間の大部分は音楽の全くわからない連中なので・・・)おそらくその
風評被害?
から抜けるために発表されたのが、このアルバムだろうと思うのだが、だったら前作の1年後ぐらいに出して欲しかった。(無理な注文ですが・・・)このアルバムの発表時にはすでにディスコバッシングなる動きがアメリカでは起こっていて、その真ただ中でこのようなアルバムを発表しても誰も聞く耳を持たなかったというわけである。この辺が彼らの(生き方という意味で)不器用なところで、完全な後出しジャンケンになってしまっている(しかも負け)。ビートルズだったら先手を打ってバッシングが起こる前に出しているところである。
アルバム自体は彼らの傑作といえるもので、特にモーリスの最高傑作「ワイルドフラワー」や、幻想的な雰囲気の「パラダイス」「ソルジャーズ」など素晴らしい作品の宝庫である。それだけに惜しい。

ビージーズよどこへ行く?

ビージーズについて何から書こうか迷うところだが、まずは最初に書いた
「ビージーズはなぜ万人に評価されるアーティストになれなかったか?なぜ誤解され続けているのか?」
について書きたい。
前稿でビージーズの思い出話を書いたが、実は本稿の長い前振りである。
「メインコース」の1年後発売された彼らの待望のアルバムは「チルドレンオブザワールド」だった。実はこのアルバムが問題作だったのではないかと思っている。僕の期待した方向とは全く別の方向性だったからである。そこにはダンスミュージックがずらっと並んでいて、かつてのビージーズとは全く異なる部分が強調されていたのである。
「全米トップ40」でこのアルバムの特集をしたとき、湯川さんは
「ビージーズよどこへ行く?」
と発言したのだが、それはそのときの僕の気持ちを代弁してくれたものだった。

1年数カ月後、あの「サタデーナイトフィーバー」旋風が巻き起こるわけだが、果たしてそれは彼らにとって幸運だったのか不幸だったのか、今となっては僕にもわからない。

ビージーズの思い出

初期のビージーズが一番好きなのだが、話の流れ的にその後の時代から始めたいと思う。
ビージーズに関して個人的に一番の思い出というと、1975年奇跡のカンバックである。それ以前、小学生の頃に初期のビージーズをよく聴いていたのだが、子供の頃の音楽の聴き方なんていい加減なもので、ラジオから流れなくなってしまうと、簡単に忘れさってしまうものである。そんなわけで1972~1974年の間、ビージーズのことを完全に忘れて暮らしていた。その頃何を聴いていたかというと朝から晩までアイドルから演歌に至るまで歌謡曲を聴きまくっていた。その僕が再び洋楽を聴き始めるきっかけになったのが、ビージーズのカンバックだった。
それは兄に連れられて御茶ノ水のジローという喫茶店に行ったときのことだった。ふと近くに置かれていたスポーツ新聞を見ていると、そこにビルボードのチャートが載っていて、なんとビージーズの「ジャイブトーキン」が1位になっていたのだった。一瞬、何かの間違いなのではないかと思ったほどである。この曲、それまでに一度だけ湯川れい子さんのラジオ番組で聴いたことがあったのだが、そのときは、「ビージーズまだやってたんだ。でも何か変な曲だなあ」としか思わなかったので、まさかヒットするとは思っていなかったのだ。
数カ月後、ラジオの都倉俊一の番組でアルバム「メインコース」の特集があり、それを聴いてみた。そこで知ったのが、「ブロードウェイの夜」と「ファニー」だった。昔のビージーズの要素もいくらか含んだこれらの曲を聴いて、ようやく彼らの新しいサウンドを理解した。それで本当に彼らがカンバックしたのかどうか確認するために聴いたのが、やはり湯川れい子さんの「全米トップ40」という番組だった。ちょうどそのとき「ブロードウェイの夜」が第7位にランクされていて、ようやく彼らが本当にカンバックしたことを信じることができたのだった。それ以後、この番組を数年間聴き続けることになる。
この時がビージーズが一番輝いていた瞬間だと思う。同時に僕自身も彼らの音楽を一番楽しんで聴いていた時期である。

ビージーズ関連のブログを始めました

昨年から、もはや日本の伝統芸能と化してしまった歌謡曲についての思い出を中心にした「ひとから聞いた話だけれど・・・」というブログを始めているが、洋楽特にビージーズについては書くことがあり過ぎて分離したほうがいいかなと思い、2つ目のブログを始めることにした。
ビージーズについては一度きちんとした形でその評価や意見をまとめておかなければという気持ちを強く持っている。というのも彼らほど浮き沈みが激しく、またあるときは過大評価され、あるときは極端に過小評価されてきたアーティストも珍しいからだ。正直、僕自身も彼らをどう評価していいかわからない部分がある。ただひとつだけはっきり言えることは、80年代以降の彼らの評価はあきらかに不当なものだということだ。あれだけ数々の名曲を作り売上げを残しながら、どうしてビートルズのように万人に愛され評価されるアーティストになれなかったのか?なぜ誤解され続けているのか?その辺を特に考えていきたいと思う。
とにかく、小学生の頃からのビージーズファンとして、あるときは思い出話を、またあるときはファンにあるまじき?辛口コメントを交えながら語っていきたいと思う。
ビージーズ以外についてもときどき取り上げていくつもりである。